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*さとり*

*しゅってん:フリーひゃっかじてん『ウィキペディア(Wikipedia)』*

*さとり**(さとり)はしらなかったことをしること、きがつくこと、かんづくことをいい**さとり**ともかく。しゅうきょうじょうのさとりはめいもうをさったしんりやそのしゅとくをいう。*

*サンスクリット**では「????*bodhi*ボーディ」。にほんごでは「**ぼだい**」「**ひらくさとる**」「**じょうどう**」(じょうどう:**じょうぶつ**とくどうのりゃく)ともいう。さとりをひらいたものを「*buddha*ブッダ」といい、かんじでおとうつし「**ぶつだ**」「**ふつ**」としたり、「さとししゃ」といやくしたりする。*

*もくじ*

[*へんしゅう*] *かくしゅうきょうにおけるさとり*

*さとりのいみのちがいがしゅうきょう・しゅうはのちがいであるということもできるが、**はんにゃけい**などでは、「さとり」と「さとり」はべつのものとしてつかいわけられていたが、げんだいにっぽんのぶっきょうかい(このきじをふくむ)ではこんらんしてつかわれている。*

*さとりはだんかいてきなてじゅんをえておきるとするばあいと、さとりはしゅんじにおきるとするばあいがある。それぞれのたちばのひとたちによりどちらがほんとうかのぎろんがされてきている。しかし、これはどちらもあり、そのほうほうによりさとりのおきかたがあやるとするたちばもある。ぶっきょうのひとつのしりゅうであるちゅうごく**ぜん**にもだんかいてきなさとり(うたてさとる)をとくはであるほっぽうぜんと、とつぜんのさとり(とんご)をとくはであるみなかたぜんにわかれたじきがあったが、ほっぽうぜんはさきにすたれたため、にっぽんにつたわるのは、とつぜんのさとりをとくなんぽうぜんである。また、ぜんではさとりとたいごがくべつされている。*

[*へんしゅう*] *ぶっきょう*

Dharma wheel
*ぶっきょう*
*きほんきょうぎ*
*えんぎ** **したい** **はちせいどう*
*さんほういん** **よんほういん*
*しょぎょうむじょう** **しょほうむが*
*ねはんじゃくじょう** **いっさいみなく*
*じんぶつ*
*しゃか** **じゅうだいでし** **たつき*
*にょらい・ぼさつ*
*ふつのいちらん*
*ぶは・しゅうは*
*げんしぶっきょう** **かみざぶ** **だいじょう*
*ちいきべつぶっきょう*
*インドのぶっきょう** **ちゅうごくのぶっきょう*
*かんこくのぶっきょう** **にっぽんのぶっきょう*
*きょうてん*
*せいち*
*はちだいせいち*
*ウィキポータルぶっきょう*

*ぶっきょう**の**さとり**(さとり、さとり)は、げんごの**サンスクリット**では、*bodhi*ボーディ、????である。にほんご・かんごでは「**ぼだい**(ぼだい)」「かくご」「あかし(しょう)」「おさむしょう(しゅしょう)」「あかしとく(しょうとく)」「あかしさとる(しょうご)」「みち(どう)」「おもね耨多らさん藐さんぼだい(あのくたらさんみゃくさんぼだい、げんごAnuttarasamyaksaMbodhi)」「むかみしょうとうしょうがく(むじょうしょうとうしょうがく)」などのべっしょうもある。*

*しんり(ほう)にめざめること。まよいのはんたい。さとりはぶっきょうのきゅうきょくもくてきであり、さとるためにさまざまなしゅぎょうがとかれじっせんされる。ぶっきょうのさとりは**ちえ**をからだとしており、**ぼんぷ**(ぼんぶ)が**ぼんのう**(ぼんのう)にさゆうされてまよいのせいぞんをくりかえし、**りんね**(りんね)をつづけているのは、それはなにごとにも**ふんべつ**(ふんべつ)のこころをもってし、ぶんせきてきになっとくしようとするけっかであるとし、りんねのまよいからちえのちからによって**げだつ**(げだつ)しなければならない、そのほうほうはじぶつをにょじつ(にょじつ)にかんさつ(かんざつ)することでじつげんする。これがしんりをさとることであり、そこにはしこうがなく、ことばもない。*

*しゃか**(しゃか)はおおくのてつがくしゃやしゅうきょうかのおしえをうけ、くぎょうにもせんねんしたがさとりをえられなかった。そこでいままでのしゅぎょうほうをすてて、あまれんぜんかわ(にれんぜんが)でもくよくしみをきよめ、むらむすめスジャータからちちかゆ(ちちがゆ)のくよう(くよう)をうけてかわをわたり、たいがんのピッパラじゅのしたでざぜんをして**ぜんじょう**にはいった。そのぜんじょうがしだいにしんかし、**さんまい**のなかで「さんめい」があらわれ、しんりをさとることができた。これによってしゃかはさとったもの(さとししゃ)、すなわち「ブッダ(**ぶつだ**)」になったのである。*

*このさとりのきょうちを「**ねはん**(ねはん)」といい、それは「じゃくじょう(じゃくじょう)」であるとされる。ぼんのうがせいぎょされているので、とらわれのないこころのしずけさがあるということである。*

*また、さとりをもとめるこころを**ぼだいしん**という。さとりをもとめるてんでは**ぶはぶっきょう**も**だいじょうぶっきょう**もきょうつうであるが、じぶんのさとりをついきゅうするぶはぶっきょうのばあい、**しょうもん**(しょうもん)は**したい**(したい)のおしえをきいてしゅぎょうし、**えんさとし**(えんがく)は**じゅうにいんねん**をさとってそれぞれげだつするとする。*

*また「さとり」ともいい、ぶはぶっきょうの**きゅうやく**(くやく)では**サンスクリットご**「vitarka」のわけである。vitarkaは「ひろ」ともやくし、たいしょうをおしはかってふんべつする麁(あら)いしんのはたらきをいう。いっぽう、こまかいこころのはたらきを「vicaara」(きゅうやくではみ(かん)、しんやくでは伺(し))といい、りょうしゃはたいになってもちいられる。このりょうしゃはともにていこころ(じようしん)をさまたげるが、**ぜんじょう**のふかまりによってしょうめつする。*

*だいじょうきょうてんでは「さとり」は「bodhi」のわけで「ぼだい」とおとうつされ、さとり、もしくはさとりのちえをあらわす。ふるくは「みち(どう)」「い」「さとしい」などとやくされた。だいじょうぶっきょうではじぶんのさとりはたにんのさとりをぜんていにせいりつするというたちばから、**ろくはらみつ**(ろくはらみつ)という**りたぎょう**をじっせんする**ぼさつくだり**(ぼさつぎょう)をきょうちょうする。さとりはこていしたじょうたいではなく、さとりのくだりは、じりとりたのりょうめんをねがってこうどうしつづけることであり、みずからのさとりにあんじゅうすることなく、さとりをもとめるひとびとにじっせんをしどうするためにかつどうしつづけたしゃかのすがたがそうていされており、かつどうしていくことにさとりのいみをもとめているのが、だいじょうぶっきょうのぼさつのとくちょうである。そしてぼさつのさとりはしょうもんやえんさとしとちがい、きゅうきょくさいこうのものであるとして「おもね耨多らさん藐さんぼだい」「むかみしょうとうしょうがく」、あるいはたんにしょうがくとよばれる。*

*ちゅうごくせんじゅつとされる『**だいじょうおこししんろん**』では、**おもねよりゆき耶識**(あらやしき)にふかくとさとしのにぎがあるとし、さとしをさらにはじめさとし(しかく)と**もとさとし**(ほんがく)とにわけてせつめいする。*

*われわれのしんせい(しんしょう)は、げんじつには**むみょう**(むみょう)におおわれ、もうねんにとらわれているからふかくであるが、このむみょうがとめめつしてもうねんをハナレたじょうたいが「さとし」であるという。ところで、むみょうはむはじめいらいのものであるから、それにいきょするふかくにたいしては「はじめさとし」といわれるが、われわれのしんせいのこんげんはほんらいせいじょうなさとりそのもの(「もとさとし」)であって、それがたまたまむみょうにおおわれているから、はじめさとしといってもそれはもとさとしとべつのものではなく、はじめさとしによってもとさとしにきいつするにすぎない、とせつめいする。つまり、だれにでもさとりにいたるみちはあけており、それにむかってのしゅぎょうがひつようなことをといているのである。さらに、さとりはせいじょうなものであることもせつめいされており、このろんしょのとくちょうである。*

[*へんしゅう*] *ジャイナきょう*

この節は執筆の途中です *このふしは**しっぴつちゅう**です。**かひつ、ていせい**してくださるきょうりょくしゃをもとめています。*

[*へんしゅう*] *ヒンドゥーきょう(バラモンきょう)*

*ヒンドゥーきょう*

*きほんきょうぎ*
*りんね**、**げだつ**、**ごう**、**梵我いちにょ*
*かみ々*
*ブラフマー*
*シヴァ**(**パールヴァティー**)*
*ヴィシュヌ**(**クリシュナ**)*
*アスラ**、**ヴァルナ**、*
*ヴィローチャナ**、**ヴリトラ*
*ラーヴァナ**、**インドラ*
*ナーガ**、**ナーガラージャ*
*ジャガンナート*
*せいてん*
*ヴェーダ*
*マハーバーラタ*
*(**バガヴァッド・ギーター**)*
*ウパニシャッド*
*ラーマーヤナ*
*ほうてん・りつほうけい*
*マヌほうてん*
*ヤージュニャヴァルキヤほうてん*
*じんぶつ*
*シャンカラ**、**グル*
*しゅぎょうほう*
*ヨーガ*
*ちいき*
*インド**、**ネパール*
*スリランカ**、**バリトウ*
*しゃかい・せいかつ*
*カースト**、**ジャーティ*
*サティー**、**アーシュラマ*
*ぶんか・げいじゅつ*
*じいんいちらん**、**いせきいちらん*
* **ひょうじ**・**ノート**・**へんしゅう**・**りれき** *

*ヒンドゥーきょう**はひじょうにざったなしゅうきょうであるが、そこにはヴェーダのじだいからつづくさとりのたんきゅうのながいれきしがある。*

*ぶっきょうにたいじする**ヴェーダのしゅうきょう**けいでつかわれる**さとり**は**いしき**のじょうたいで、ひとがとうたつすることのできるさいこうのじょうたいのいくつかをいう。**サンスクリット**の**ニルヴァーナ**(**ねはん**)にそうとうする。**こうみょう**またはたいごとよばれることもある。さとりをえるときにきょうれつなひかりにつつまれるばあいがあることから、こうみょうとよばれる。*

*インドでは**ヴェーダ**のじだいから、「さとりをえるためのかがく」というものがもとめられた。それらはとくにてつがくてきなひょうげんで**ウパニシャッド**などにきじゅつされている。こだいのじだいのさとりをえたそんざいはとくにリシとよばれている。*

*ニルヴァーナには3つのだんかいがそんざいするといわれ、マハパリ・ニルヴァーナがさいこうのものとされる。さとりとよぶばあいはこのどれもさすようである。どのだんかいのニルヴァーナにとうたつしても、そのいしきじょうたいはうしなわれることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナはにくたいをもったままえるのはむずかしいとされ、さとりをえたそんざいがにくたいをハナレルばあいにマハパリ・ニルヴァーナにはいるといわれる。*

*さとりをえたそんざいがにくたいをハナレルときには、「しんだ」とはいわれず、「にくたいをハナレル」、「**にゅうめつ**する」、「ねはんにはいる」なとどいわれる。*

*さとりというばあい、ニルヴァーナのせかいをかいまみる**しんぴたいけん**をさすばあいがある。このばあいはニルヴァーナにはふくまれないとされ、にせのニルヴァーナとよばれる。にせのニルヴァーナであっても、じんせいがかわるたいけんとなるので、にせのニルヴァーナをふくめて、ニルヴァーナには4つあるとするばあいもある。*

*げんざいでも、**ゴータマ・ブッダ**のじだいとおなじようにさんやでしゅぎょうをおこなうぎょうじゃがおおい。どんなじだいにでもおおくのばしょにたくさんのかずのさとりをえた(とじしょうしている)そんざいにことかかない。*

*つうじょう、さとりをえたとするそんざいもヒンドゥーきょう、またはそのぜんだんかいの**バラモンきょう**のでんとうのうちにとどまっていた。しかし、とくにゴータマ・ブッダのじだいはバラモンきょうがしさいのけっとうであるブラフミン(バラモン)をとくべつなそんざいとしゅちょうしたときで、それにはんたいしてバラモンきょうのはんいからとびだしている。どうじだいには**ジャイナきょう**のマハヴィーラもさとりをえたそんざいとしており、やはりかいきゅうせいである**カースト**にはんたいしてこれをみとめず、バラモンきょうからどくりつしている。*

[*へんしゅう*] *キリストきょう*

*キリストきょう**ようごには“さとり”はないが、かみをしるたいけんがあります。はじめのひとアダムとエバのじだいにかみからハナレたじんるいにもういちどかみとのまじわりにはいるときのれいかいたいけんがあります。イエス・キリストがてんからこのよにこうたんし、ひとをじゃまするだらくしたれいかいのもの、あくまとあくりょうをおさめ、ひとをかいほうし、じゅうじかじょうでひとにかみのゆるしをもうけたことにより、ひとにかみとのまじわりがひらかれました。せいしょにきろくしてある、かみにたいするしんこうをたもっていきた**しょだいしんじゃ**、**イスラエル**じだいのしんじゃ、にんげんのすがたであらわれたかみ、**イエス・キリスト**とそのでしたちにならい、そのおなじこころになり、かみをたいけんすることです。**れいかいたいけん**のためにしずかになること、めいそうがひつようです。しゅイエスをよびもとめ、いのります。だんじきをするまでぶっしつのせかいをおいておくことで、れいかいたいけんはうけやすくなります。せいしょをよみながらすすむと、そのたいけんにせいちょうするのです。せいしょのことばで「ぎじんのみちは、あけぼののひかりのようだ。いよいよかがやきをましてまひるとなる。」ぎじんはイエス・キリストをしんじ、かみとわかいされ、せいしょとかみのせいれいのはたらきによってととのえられいきる、かみがよろこばれるひとといういみです。かんそ、どっきょ、じゅうじゅんとほうしはそのしんせいたいけんをたすけるかんきょうつくりになります。おなじたいけんをもっているたにんとのきょうどうたいのこくはく、れいはい、そのなかにいただくみちびきとかみをよろこぶしゅくさいもそのたいけんをたすけるしゅだんです。*

*カトリックきょうかいの**せいじん**とよばれるひとびとのなかにはさとりにちかいりょういきにいるとおもわれるひとがいる。また、そうりょがするしゅぎょうのなかには**めいそう**もふくまれている。また、でんとうてきなプロテスタントはではさとりはとかれないが、プロテスタントけいとうのたいけんはともいわれるペンテコステ・カリスマはとそのるいで、じょうきにかいてあるたいけんがあります。せいしょのおしえにじだいのほかのしゅうきょうがまざったため**いたん**とされた**グノーシス**はでは、しんにかみをしることをさとり(グノーシス)とよぶ。*

*また、きんねん「**じこそうしつのたいけん**」をかいた**バーナデット・ロバーツ**はごくふつうのしゅふでありキリストきょうをしんじるものとしてのたいけんをまとめている。これはさとりのプロセスとしてしられているものにひじょうにちかいかどういつである。いっぱんてきなことばでひじょうにきゃっかんてきにじぶんにおきたプロセスをまとめている。ヴェーダのたんごをつかっていないのでなじみのないものにりかいがしやすい。*

*ヴェーダのしゅうきょう**のけいとうでは、**イエス・キリスト**をさとりをえたそんざいとしてそんちょうするばあいがある。キリストきょうかいではイエス・キリストをかみとひとをつなぐちゅうかいしゃ、**しんせいたいけん**をかのうにするなくてはならないちゅうしんてきなそんざいとしてそんちょうしています。*

[*へんしゅう*] *ニューエイジ*

*きんねんのおうべいで、キリストきょうととしてとまったままでキリストキョウのわくぐみからはずれてしゅうきょうてきたんきゅうをするうんどうがあり、**ニューエイジ**とよばれているが、それらのひとびとによってさとりのがいねんがとりいれられ、**イエス・キリスト**をあるたねのさとりをえたそんざいとしてとらえるばあいもある。*

[*へんしゅう*] *イスラムキョウ*

*いっぱんの**イスラムキョウ**にはさとりのでんとうはふくまれていないが、とくにイスラムキョウ**しんぴしゅぎ**ともよばれる**スーフィー**は、うちなるかみとのごういつをもくてきとしており、そのプロセスはさとりのプロセスのいずれかにちかい。しかし、かみとのごういつをなしとげたスーフィのなかには「わがはかみなり」とせんげんしていっぱんのイスラムきょうとにしょけいされるばあいがある。*

[*へんしゅう*] *さとりとにたいみのことば*

  • *モクシャ**(げだつ)-モクシャにはじゆうのいみがあり、さいしゅうてきなじゆうをえることをさす。また、**てんごく**と**じごく**をちょうえつしたばしょとして、モクシャをさすばあいもある。モクシャは、てんごくにはいるということではなく、てんごくとじごくをちょうえつしたばしょにはいることをしめす。*

[*へんしゅう*] *こうみょうをえたとされるひと*

*こだい*
*きんだい*
*げんだい*

[*へんしゅう*] *かんれんこうもく*